昨日、またまた徳兵衛さんにお逢いすることができました。
今度は、鐘楼の彫物。
(徳融寺)
何やら由来のある鐘楼堂で、由来書きによれば
落慶法要が明治28年となっている。
鐘楼堂内部に、お布施された方のお名前がずらりっと書かれているが、
彫刻師の銘も・・・。
彫物は、四面とも‘龍'である。
龍の彫物は、奈良方面の神社本殿などの蟇股でよくみられる簡素化な顔姿。
『相野徳兵衛直信 花押』の銘が初めて観られるのは、‘ニ河原邊’のだんじりであろう。
このだんじり、同門の『相野伊兵衛直之』との合作。
彫物を見る限り、江戸末期の作(嘉永前後?)で明治期の彫物とは見えない。
と、するのなら、徳兵衛直信さんは、非常に長く現役彫物師として活躍されたと考えてみた。
嘉永(1848年)ころをほぼ20歳とみても、明治28年(1895年)では、67歳となる。
若年期の作は、こと細かい彫物が多かったが、壮年晩年期の彫物は、ちょい彫りのような荒い彫物が多く感じられる。 太鼓台の彫物にしても、気ままなユニークのある彫物が多く、かしこまった型にはまっているような作品はない。これは壮年晩年期にみられる熟練された手腕によるものではないか。
(豊井太鼓台 明治17年作)
以前、東大寺二月堂手水舎のことで、いろいろと述べたことがあったが、これら説がものの見事に打ち砕かれた。 つまり、二月堂手水舎の彫物は、弘化年間説が崩れ、明治27年説が有望となった。
それもそのはず、よく考えてみれば、弘化年間に、まあ各彫物裏面に銘を入れるのは、はなはだおかしく感じられるところがある。
以下、二月堂手水舎の‘雲’の彫と鐘楼堂の雲を比較すると、ほぼ一致しているのがわかる。
(二月堂手水舎 雲)
(鐘楼堂 雲)
以下、銘は書かれていないが‘徳兵衛’さんの作と思われるものをあげておく。
(岩室事代主神社)
(光蓮寺)