四條畷市、かって北河内讃良郡甲可村と呼ばれていたとき、
北から、北野、中野、南野とに分かれていた。
岡山は北野に属し、砂・岡山の地区がある。
1990.10.10 撮影
1992.10.9 撮影
平成五年の修理のとき、貴重な墨書きが見つかった。
『天保九 戊戌 六月 細工人 河州讃良郡中之村大工 権兵衛 造之』
天保九年(1838)つちのえいぬ 六月の日付があり、
中野の大工 権兵衛により造られたことが判明した。
四條畷の地車の中で製作年が明確なのは、今のところ三台のみである。
岡山に鎮座する忍陵神社は、明治・大正期に
砂にある馬守神社、大将軍社と岡山の津鉾神社を合祀された。
合祀される以前、砂の馬守神社に二台、岡山の津鉾神社に一台の地車があった。
馬守神社の二台とは、砂と奈良田、津鉾神社の坪井である。
(当時、砂で曳かれていた地車は、現 江ノ口南地車である)
かって忍陵神社の会館のところに、二台の地車小屋があり、
昭和30年代後半に、そのうちの一台が枚方の招堤へ売られた。
この地車はもう長らく曳かれていなく、道辻でも曲がりにくい大きな地車であったという。
もと地車研究家のM氏が若き頃、高校生時代に
「長尾高校付近で真っ黒い大きなだんじりを見た」と話を聞いたことがあった。
調べによると、この近辺の‘高野道’や‘長尾峠’には昔からだんじりがないことから、
おそらく、招堤へ売られたこの地車を曳いていたのを見たのであろう。
枚方日置天神社のこの地車は、泥幕部の寸法を縮め、
台棒の取付けを変更しているが、もとは
背丈4.9メートル級の大型の地車である。
売られたとき、なぜか獅噛一枚が入れ替わった。
その証拠に日置天神社にこの獅噛があった。
1994.10.9 撮影
昭和40年代 四條畷広報課撮影
今年、大修理を終えた岡山の地車
獅噛、屋根廻り(後車板、4面の枡合、木鼻、力神、縁葛を除く)の彫物は新調されている。