その前に、明治15年の雁屋地車新調時に遡ってみる。
当時、きっての名彫物で名高い北條北ノ町地車がある。
雁屋の世話役さんが雁屋地車新調時の際、この北ノ町地車の彫物よりも
見劣りのしないりっぱな彫物を大阪本町四丁目の彫物師小松源助に依頼した。
小松源助は、同年10月27日に彫物代金235円、内手付金10円とし、北條
北ノ町地車の彫物に寸分相違いないよう仕様書どおり、極上に仕上げると契約を交わした。
雁屋地車請負定約書 明治15年
契約の中で、もし手を抜いたところがあれば、ご指示とおりに何回でも
彫り直し、来る明治16年3月30日を期限に受け渡す。
地車に彫物を組み上げ後、彫物に相違などがあれば、残金の支払いは不要である。
追記として、彫物代金の追加料金はなく、また契約事項にそぐわないことがあれば、
受取金は返納する。 (請負定約書の意訳)
小松源助は職人気質といようか、腕に自信ありげに「何回も彫り直す」とか
「極上の仕上げに出来ていないのなら、残金の支払いはいらない」などと
威勢のいい啖呵を切っている。
彫物の製作期間をたったの5ヶ月とし、彫物金額を235円に定めている。
《 明治15年当時の米の相場で計算すると、約240万円前後の金額となり、
現在と比べればかなりの安価と思われる。
現在の米の物価で換算するのも、いささか問題があると思われるが、
当時、小さな村でも地車を持てたことを考えれば、
地車の相場もさほどの巨額ではなかったかもしれない》
さて、北條北ノ町地車は、製作年不詳、彫物師も不詳の名彫物の地車で、
推定、江戸末期から遅くとも明治初年の作で、彫物は相野藤七系統の彫と思われる。
北條北ノ町地車
正面車板
後面車板
もし、北條北ノ町地車が同小松一門の彫であれば、
定約書に何らかの文言を付け加えているはずであり、
また源助は、北ノ町の彫師も見識していたとも考えられる。
ところで小松源助は、一度は北條北ノ町地車を見学しているはずである。
その証拠に、北ノ町地車のこの彫物に強く関心をひかれたのに違いない。
つづく・・・、