小松福太郎の初期の彫とは、どのようなものか?
今から数年前、解体された千林の彫物から、‘福太郎’の墨書きが発見された。
千林 (M氏撮影)
この車板の彫物を観るなり、私の度肝を抜かれた。
こんなものが、残っていたとは…、
このボテボテ感の体つき、大胆な尾のたなびき、まさに、福太郎さんである。
年代は不明だが、ほぼ福太郎さんの中期ころに値すると思われる。
この彫物と後期の彫物と比べてみると、
千林 打上上 (慶應四年 1868)
千林 南新田・元町 (明治4年 1871)
千林 南新田・元町
打上上
何といようか、彫の面影が残っている。
以下は、墨書きのない平野屋と墨書きが消えた?という名塩の北ノ町
平野屋 (江戸末期) 西宮名塩 北ノ町
さて、初期の彫とはどのようなものか?
ここに、小松源蔵作とされる地車の彫物がある。
獅噛や枡合の彫物は、源蔵さんの匂いがプンプンするのであるが、
どうも前後ろの車板のものが、源蔵彫と異なる。
木間 後車板 (推定 嘉永年間)
この唐獅子、いつもの顔と少し異なるが、体つきのイメージは同じである。
木間 南新田・元町
木間 善根寺 (江戸末期)
善根寺の彫物も源蔵・福太郎の共作である。
初期の顔と後期のものは幾分異なっているが、
やはり、つちかわれてきた素養のような彫は、
等しい(似ている)としか言いようがないと思われる。
ちなみに、八代目源助の彫を観ると、
茨田大宮 (明治11年) 雁屋 (明治16年)
茨田大宮 茨田大宮
やはり、彫の素養のようなものが、福太郎と八代目源助とでは、異なるのではなかろうか?