小松福太郎を語る前に、
今から二十数年前、彫物研究家W氏により
小松福太郎と八代目小松源助がイコール、つまり同一彫師として見解されている。
そもそもある墨書きの影響により、源助の幼名を福太郎とし、
それ以後の源助の彫と同彫師とされているところにある。
W氏が福太郎の彫を熟知してそう言われるのなら承知するが、
誰が見てもまったく異なる細工である。
このことが未だに定説になっている。
以下、刻銘のあるほぼ完成された彫物
豊浦 文久二年(1862) 小松福太郎
南新田・元町 明治四年(1871) 彫工福太郎
北條中ノ町 明治十二年(1879) 小松源助
雁屋 明治十六年(1883) 小松源助
奄美 明治十八年(1885)推定 小松源助
これらの彫を見比べて、ほぼ十年後にこのように彫が変化するとは考えられない。
福太郎は、推定嘉永年間から明治初期に活躍し、
明治初期に‘福太郎改め源助’と改名するものの、
それ以後の福太郎の彫(完成)が全く見られないことも事実である。
さて、福太郎の初期の彫物は、どのようなものか・・・・
つづく・・・、