さて、秋祭日に付けられる提灯に注目していただこう。
提灯の中央に「西の宮」と書かれている。
この「西の宮」とは、字地名である。
他に「生駒」と言うところがあり、おそらくその地から移住されてきたことから、名付けられたと思われる。
深野北地区は、古くは『深野北新田』と呼ばれていた。
かって、大東市から門真市にまたがる地には、『深野池』(フコノイケ)と呼ばれる大きな池(沼地)があった。
大阪平野がまだ海におおわれていた時代、土砂が堆積し『河内湖』となり、さらに『深野池』という低湿地帯が残り、江戸の終りに水田開発が行われた。
『深野池』については、元禄時代に書かれた貝原益軒の『南遊紀行』に紹介されている。
大東市を南北に縦断する深野池の東端沿いの地を「深野」といい、北から『深野北新田』、『深野中新田』、『深野南新田』に分かれていた。『深野南新田』は、「平野屋」、「谷川」、「河内屋南」(現在の南新田)に分かれる。
大東市内では、町名に「田」の字が付くことが多くある。深野中地区には、『太鼓田』(タイコデン)、深野南地区には『元田』(モトデン、現在の東大阪市の元町)と呼ばれるところもあり、新田開発に従事した名残であろう。
ただし、「新田」、「太子田」(タシデン)、「御供田」(ゴクデン)の名は、新田開発によって名づけられた名前でないことに注意していただきたい。 また開発地は、氏神さんとしての神社は祀られるが、お寺さんはない。
だいぶ話は横道にずれたが、
深野北地車は明治34年ころ、寝屋川市の木田から購入と聞きます。
おそらく、獅噛や懸魚、泥幕などこのときに新しいものに替えられたと思っていたが、明治34年ころの‘彫清’の彫ではなく、もう十数年前の彫である。
前回の西櫻木地車は、生野区で明治10年の製作、猪飼野地車は、明治20年の作と言われているので、
購入よりも以前に彫物は、取り換えられていたとも考えられる。
つづく・・・。
追伸
いよいよ明日で終了です。
京都国立博物館 『桃山時代の狩野派』 特別展示会
狩野永徳の唐獅子図の影響を受けた狩野山楽による「唐獅子図屏風」の大きさにびっくり!。
‘こんなに大きいとは、思いませんでした。’・・・・現地での感想より