かって北河内に大きな深野池(沼)があった時代、
その池の最南端、東端に位置するのが御供田村である。
この地名‘御供田’、この字をまとめに読める人はいない難読地名である。
‘ゴキョウダ’とか‘オクダ’とか、地元の人が聞いても一瞬ためらう。
‘御供田’とは‘ゴクデン’と読み、通称‘ゴク‘という。
社寺に属し、その御供料にあてる田地という意味である。
古くは玉造の鵲森神社の社領であったり、石清水八幡宮の同社領とか伝えられているが明らかなことはわかっていない。
下の神社は、御供田八幡宮である。
昭和40年ころの写真で、パノラマ式につなぎ合わせたものである。
このころ、地車蔵が子供の遊び場となっていたときであり、
地車も石鳥居の横を通って宮出しした時代でもあった。
(H.N氏撮影)
さて、御供田の地車は、いつのころのものなのか?
(御供田)
十数年前に、神主さんに聞いたことがある。
ゴクの村は、財政に乏しかったので中ブルを購入、また神主さんの祖父にあたる人が役員をやっていたときの地車である、ということである。 その祖父にあたる人が、明治23年に他界しておられるので、明治23年以前と言うことになる。
もうひとつ、ここに隠された事実がある。
前の地車蔵に残されていた書札である。
『當村地車新築設篠符』
「世話掛り左に名前記」
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高岡甚造
明治十五年
午 十月十九日
この「設篠符」、地元では‘地車新築・・’と書いてあることから、地車新調でなく地車蔵を新築したものと信じられている。 また財政難のことも個人的な発想とも思われる。
御供田地車は、ほぼ明治十五年に新調されたのではないかと考えられる。
最後に書かれた‘高岡甚造’さんとは、お寺さん(安楽寺)の当時の住職と思われる。
お寺さんも地車新調に賛同した時代でもあった。
昭和五十五年ころの御供田地車
このころ曳行されず、境内にて飾りつけのみになっていた。
(御供田 後)
(御供田)
(赤井)
(中野本町)
もう一台、製作年が明らかなものがある・・・・。
つづく・・・。