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Channel: 彫物名鑑 小松堂
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東山七条界隈 その6 都名所図会

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安永九年(1780年)に編纂された都名所図会によれば、
方広寺の大仏殿と仁王門、並びに大仏殿の回廊、南門が描かれている。
ちょうど、現在の豊国神社の正面通の少し北方の地点から
東南方向に眺めた景色の鳥瞰図となっている。
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この大仏殿や仁王門は、人と比べるとかなりの大きさで、
太閤石垣と呼ばれる巨石の上に回廊が造られていることが判る。
つまり、豊国神社の鳥居の位置に仁王門が建てられていた。
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現在の豊国神社
安永九年(1780年)において、大仏殿や仁王門が確認できる。
しかし記録によれば、寛文二年(1662年)の地震により、
大仏が小破し(大仏殿は健在)、今度は小規模の木造の大仏を安置するものの、
寛政十年(1798年)、落雷のため、大仏殿や仁王門が焼失する。

ふたたび天保十四年(1843年)、尾張の有志により、規模は縮小された
大仏が建立されるが、これまた昭和48年の火災により焼失し、
現在のものは五代目の大仏となる。
数度となく、災難に見舞われることになった。

三十三間堂の図会では、
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大仏殿の回廊から太閤塀が右方へ続き、その中央に西大門がある。
これが、東寺の南大門として移築された門である。
右中ほどを見れば長屋の建物が描かれている、これが三十三間堂である。
また西大門から手前、西方に伸びる通りが、七条通である。
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西大門も実物はかなりの大きさだが、図会ではかなり小さく描かれている。
また、どいうわけか、門屋根も入母屋造となっている。(実物は切妻造)
京都国立博物館所蔵の洛中洛外図によれば、西大門は切妻造として描かれている。

図会左端に方形の建物がある、これが鐘楼である。
現在の位置と異なり、明治17年に再建されたものである。
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鐘楼
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梵鐘は1612年製作、知恩院の梵鐘とほぼ大きさは同じだが、こちらの方は10トンほど重く、
総重量は、何と82.7トン!

明治初期の写真
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『京都名所撮影』より
野ざらしに置かれていたという。

次に図会の右上部
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右側の門が、南大門である。
この図も何故か入母屋造の屋根になっている。
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南大門

また図会中央下にある「法然塔」も三十三間堂の境内にある。
そして、その上に竜宮門が見える、これは法住寺旧御陵の正門。
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法住寺

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今も残る三十三間堂の太閤塀


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