三箇菅原神社のだんじりの中で唯一製作年代のわかっている地車がある。
‘大箇’のだんじりである。 ‘大箇’とは ダイカ と読む。
大箇のだんじりは清瀧方面から部材を運び、大箇の某裏庭で組み立て上げられ、
明治12年の年号と宮大工「田中重太郎」の銘のあった棟札?があったそうである。
「田中重太郎」とは、この辺の人(住まい)ではないということである。(浜町の木村氏談)
恐らく、三箇菅原神社前に地車が据え置かれる以前、各村々にだんじり小屋があった時代、
大箇のだんじり小屋に何らかの棟札?があったと思われるが、今ではまぼろしの存在となっている。
今となっては手がかりは、彫物のみ。
正面の龍の彫をみると、
彫友というより、彫清系の龍。
唐獅子を観ると、
う~ん、彫友に近く、
麒麟の彫では、
これも彫友に近い、
ちなみに‘中野本町’の麒麟と比較すると、
(中野本町)
後面の唐獅子では、
いつもの『彫友』のパターンと異なり、
どちらかというと、‘清瀧’のだんしりのものと同じ、正面顔の下絵が使われている。
(清瀧)
宮大工『大重』こと田中重太郎師のことは、「ふるさと雁屋だんじり百年祭」の冊子と「大箇地車生誕120年記念誌」に詳しく記載されている。
宮大工として、また、だんじり大工として偉業を残した田中重太郎師、
簡単な彫物もこなし、祭り時期となればガラス眼の修理にも出かけたという。
四條畷神社も手掛け、「御用達」の看板も店に掲げていた。
作業場は、南野(滝・木間)にあり、明治の十年代からかなりの地車に係わったと思われる。
また重太郎師の遺品で、龍の下絵なども数多く残っていたという。
この下絵、今では観ることはできないが『彫友』との関係が大いにあったと考えられる。
重太郎師が手掛けた、
寝屋川市高宮大杜御祖神社本殿(明治22年)や同拝殿の彫物も『彫友』系の彫物で、
四條畷南野の御机神社本殿や拝殿(明治14年前後)もおそらくお膝元の宮大工であるから
間違いなく請負ったと思われる。
田中重太郎師 大正15年9月15日撮影 (大箇地車生誕120年記念誌より転載)
つづく・・・。