西国街道のほぼ中間点に郡山がある。
ここはただひとつ残る郡山宿本陣(椿の本陣)である。
浅野内匠頭も宿泊した記録が残る本陣
現在の建屋は、屋根の葺き替えや一部改造を除き、
享保六年(1721年)再建当時のまま残され国史跡に指定されている。
玄関の応龍
ずらりと展示された火縄銃
‘桃に親子猿’の留蓋
五色の夫婦椿 二代目
椿の本陣に近接する玄通寺
こじんまりしたお寺さんだが、
ここの本堂には、少し大きめの獏鼻
何と・・・何と、
藤七彫ではないか?!
蟇股は、といえば・・・、
なぬ・・・・、
五分の一ほどの下部しかなく、スライスされている。
だが、
この龍の三本爪や
この波頭は、どこかで観たような?
獏の足やあご髯などオリジナルの藤七さんに違いない!
眼穴も左右に貫き彫りの藤七仕上げとなっている。
聞くところによれば本堂が倒壊したため、できるだけ使用できる部材を使って
再建したということである。
調べでは、もともとこのお寺は大規模な寺院であったが、
享保三年(1718年)の大火延焼により、椿の本陣やこの玄通寺も焼失し、
その後南方の山麓に小規模の本堂と庫裏などを再建された。
しかし、慶應四年(1868年)の大雨のため裏山が崩れ、本堂や庫裏が土砂により倒壊した。
本尊など土砂の中から拾い出し、使用できる部材を使って
現在の地に再建されたと伝わっている。
とするのなら、現木鼻などの彫物は、享保から近い年に作られたと考えるのが妥当である。
十年後の再建として1728年完成と仮定すると、慶應四年まで140年の隔たりがあり、
建築後、100年も経てば何らかの修復や補修も必要となってくる。
120年後として1847年の嘉永7年となり、この頃に大掛かりな補修や
再建を行ったのではないかと考えられる。
つまり、この時期に藤七による彫物を新調したと思われる。
さて、スライスされた蟇股は、
土砂で倒壊した後、蟇股の龍の彫物があまりにもばらばらで再現できなかったか、
もしくは、
もとの大きさに再建すると、現在の本堂よりも屋根が高くなり、より大きな本堂となるので、
あえてスライスした彫物で代用したものか?謎は残る。
山門にも雲の蟇股(再利用)がある