さて、この名地車の彫師は、誰であろうか?
泥台の波頭の彫から相野と判るが、
高欄合
高欄合のしなやかな波しぶきは、
察するところに、“藤七彫”と考えられる。
浄谷寺 欄間
そして、もうひとりの彫師は、
上地車図会さんによれば、「相野伊兵衛も含まれるのでは・・・」、と助言をいただいた。
う~ん、私の観る限り、伊兵衛さんのオリジナルなものは、見当たらなかったが、
ここにそのヒントがあった。
新田西 枡合
背景は異なるが、ほぼ同じ下絵で、同彫師の作ではないかと?
淡輪 解体された彫物
さて、この鳳凰、
新田西 懸魚
ヘルメットをかぶったような頭部と肉髯の下に
蝶ネクタイの様な左右に伸びる巻き毛のような彫は、
正しく“藤七彫”の特徴である。
ここで、藤七彫と思われる懸魚を観てみると、
名張 本町
上三ツ島
(彫の半分は、相野伊兵衛)
北條北ノ町
ここで、ちよっと待った!
藤七彫の系統の彫師で‘相野清七’という彫師がいる。
藤七とほぼ同年代の彫師で、
活躍は、天保期から明治十年代。
当初、相野清七は、藤七の幼名かとも思っていたが、
さにあらず、彫を見てみるとやはり同じ下絵で彫られているが、
その腕の差に違いが見られる。
中宮
浄谷寺 向拝
浄谷寺の彫刻においても、メインは藤七以下、一部、清七の彫がみられる。
先ほどの、本町、上三ツ島、北ノ町は、
ほぼ江戸末期から明治初期、初期といっても初年の製作と推定される地車。
私はこの三地車は、相野藤七の晩年の彫ではないかと考えたいのだが?!。
つづく・・・、